嵯峨野・嵐山の観光案内
嵯峨野・嵐山は、京都市の西部にある景勝地であり、京都を代表する人気観光地でもある。
嵐山をバックにした渡月橋や、竹林の小径などは、京都を代表する景観として知られる。
京都市街地から極めて至近距離だが、保津川渓谷に隣接し、平安時代には既に貴族の別荘地として栄えた。
世界遺産登録の大寺院や、京都を代表する紅葉寺も多く、京都を代表する観光地となっている。
おすすめ観光スポットとマップ
天龍寺は、臨済宗天竜寺派の本山で、足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るために、夢窓国師を開山として創建したもの。世界遺産にも登録さており、我が国初の史跡・特別名勝である曹源池庭園など見所も多い。
渡月橋は、桂川にかかる橋で、承和年間に道昌が架橋したのが始まりとされる。亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と読んだことから渡月橋と名付けられる。嵐山を背景に桂川にかかる渡月橋は、嵐山を代表する風景として知られている。
大亀山 宝厳院は、天龍寺の塔頭寺院の内のひとつ。見所の獅子吼庭園は、禅僧の策彦周良禅師によって作庭されたもので、嵐山を借景として巧みに取り入れ、獅子岩などの巨岩を配した借景回遊式庭園となっている。
秋の紅葉が特に素晴らしく、庭園内だけでなく拝観出口付近のモミジのトンネルは圧巻の美しさ。
秋の紅葉が特に素晴らしく、庭園内だけでなく拝観出口付近のモミジのトンネルは圧巻の美しさ。
竹林の小径は、野宮神社付近から、天龍寺の北門脇を抜け、大河内山荘付近まで続く、竹林に囲まれた小路。天を覆う高い竹林に囲まれた道は大変風情があり、嵯峨野・嵐山だけではなく、京都を代表する風景として知られている。
野宮とは、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢へ行かれる前に、身を清める潔斎生活を送った場所。
斎王制度が後醍醐天皇の時代に南北朝の戦乱で廃絶した後は、神社として存続し現在の野宮神社となる。
斎王制度が後醍醐天皇の時代に南北朝の戦乱で廃絶した後は、神社として存続し現在の野宮神社となる。
常寂光寺は、1596年に、本圀寺十六世 究竟院日禛が、小倉山の土地の一部を譲り受け隠棲して開創したもの。境内は小倉山の斜面に作られているため、境内上部からは大変良い眺望が得られる。
また、秋の紅葉が大変美しいことでも知られている。
また、秋の紅葉が大変美しいことでも知られている。
落柿舎は元禄の俳人 向井去来の閑居の跡地。
現在の落柿舎は、蝶夢門下の井上重厚が、1770年に再建したもの。
去来の師匠である松尾芭蕉も何度かこの地を訪れている。
現在の落柿舎は、蝶夢門下の井上重厚が、1770年に再建したもの。
去来の師匠である松尾芭蕉も何度かこの地を訪れている。
嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師が承和年間に開山したといわれ、明治以降は天台宗に属する。
本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため二尊院と呼ばれている。
紅葉の馬場などをはじめ、秋の紅葉が大変素晴らしいスポットでもある。
本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るため二尊院と呼ばれている。
紅葉の馬場などをはじめ、秋の紅葉が大変素晴らしいスポットでもある。
平安時代に法然上人の弟子である念仏房良鎮が往生院を開祖したものが、後に祇王寺と呼ばれるようになる。
平家物語でもお馴染み平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王は、仏御前の出現で平清盛の心は自分から離れたのを感じ、出家しこの地に移り住む。後に仏御前も加わり念仏三昧の余生を送る。
平家物語でもお馴染み平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王は、仏御前の出現で平清盛の心は自分から離れたのを感じ、出家しこの地に移り住む。後に仏御前も加わり念仏三昧の余生を送る。
厭離庵は、京都嵯峨野の小倉山の麓にある、藤原定家が住んだ山荘の旧跡。
藤原定家が小倉百人一首を編纂した地とされている。
ひっそりとした小さな境内だが、真紅に染まる秋の散り紅葉は格別の美しさ!
藤原定家が小倉百人一首を編纂した地とされている。
ひっそりとした小さな境内だが、真紅に染まる秋の散り紅葉は格別の美しさ!
清涼寺は、千年来、嵯峨釈迦堂の名で呼び親しまれている寺院。
ご本尊の三国伝来生身釈迦如来像は、模刻された際に、中国の尼僧により体内に絹で作った五臓六腑等が施入された大変珍しいもので、体内封籠品は境内の霊宝館に陳列されている。
ご本尊の三国伝来生身釈迦如来像は、模刻された際に、中国の尼僧により体内に絹で作った五臓六腑等が施入された大変珍しいもので、体内封籠品は境内の霊宝館に陳列されている。
宝筐院は、平安時代に白河天皇の勅願寺として建てられた善入寺に始まる。
室町幕府の二代将軍足利義詮が伽藍整備に力を入れ、
1367年に足利義詮が没するとその菩提寺となる。幕末には衰退し廃寺となるが、大正6年に復興される。
秋の紅葉が格別に素晴らしいスポットとしても有名。
室町幕府の二代将軍足利義詮が伽藍整備に力を入れ、
1367年に足利義詮が没するとその菩提寺となる。幕末には衰退し廃寺となるが、大正6年に復興される。
秋の紅葉が格別に素晴らしいスポットとしても有名。